虫取り名人になりたい!
驚嘆と学び
実にそのタウマイゼンの情こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。
つまり、求知(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。プラトン「テアイテトス」
タウマイゼン(θαυμάζειν)という言葉がある。
「驚き」「驚異」「驚嘆」のような意味を持つギリシア語だ。
古代ギリシアでは特に「知的探求の始まりにある驚異」を表す言葉として使用されており、冒頭のプラトンの引用(作品内ではソクラテスの引用だが)でも、哲学の始まりとして強調されている。
哲学と聞くと高尚な感じがするが、実際には全ての人が意識的/無意識的に行なっている活動だ。
外界から何かしらの刺激を受けて、それについて考える。うまくいけば、自分の価値観・行動も変容する。
そのような活動を僕たちは「学び」と呼んでいて、その過程は以下の5つに分割することができる。
- Explore(探索): 計画的偶発性から新しい刺激を得る
- Input(受容): 刺激のうち、認識・許容・価値判断ができたものを取り込む
- Reflection(内省): 取り込んだ刺激を分析し、内面化する
- Output(表出): 内面化した物事を、他者に共有できる形式に具体化する
- Action(行動): 学びを実際に共有したり、自身の行動を長期的に変えたりする
この分割を意識する前の僕は、可視化されやすい 1 と 5 を重視して、間の3ステップを軽視してしまっていた。(なぜ自分のサイトを作ったか)
多少はActionに繋がっているので、無意識下では2~4のステップも実行していたのだろう。
しかし、プロセス全体の流れに対して自覚的でないと、受容しきれず取りこぼしてしまったり、内省が足りず学んだものを放置したり、ぼんやり理解した気になって言語として表出させることをサボったりと、せっかくの刺激を活かしきれないことになる。
虫取り初心者
今の私が最も学びの損失を産んでいるのが 2.受容
である。
そのフェーズで最も重要なのは、タウマイゼンを最大限感じることだ。
なぜなら、タウマイゼンを感じることこそが、無数にある刺激に価値を見い出し、受容することの始まりだからである。
Wikipediaでは、タウマイゼンを以下のように説明している。
身近な日常の中にある些細な出来事の中に知的理解が及ばない物事を見いだした時、人は自分の周囲すべてが謎・困惑(アポリア)に包まれている感覚を覚える。このとき体験される驚き、驚異、驚愕のことをタウマゼインと言う。
このように、イベントに行ったり本を読んだりしなくても、日常は本来驚きに満ちている。
しかしそのほとんどを僕たちは認識出来ないし、認識したとしても価値を見い出せないのだ。
この話は虫取りに例えるとわかりやすい。
- 虫 = 外部からの刺激
- 虫網を振る数 = 探索回数
- 網の大きさ = 好奇心の広さ
- 網の目の細さ = 感受性/前提知識
虫取り網を振れば振るほど、
網のサイズが大きければ大きいほど、
網の目が細かいほどほど、
より多くの虫が捕まえられるようになる。
また、捕まえた虫に価値を見出すかは、虫に対する知識の深さや、何を捕まえたいと考えているかによって変わってくる。
肩から担いで歩いているだけ(日常)でも、そこら辺を飛び回っている色々な虫を捕まえてコレクションに加えられる可能性はあるのだ。
しかし、自分の虫網が小さかったり網の目が荒かったり、せっかく捕まえても「気持ち悪い虫だな...」と捨ててしまったりすることで、多くの貴重な虫を取り逃がしてしまっている。
このことに気づいてからは、学びの少ない本/イベントだなぁとは気軽に言えなくなってしまった。
それは、「自分は虫取りが下手です!」と喧伝して回るようなものだと理解したからだ。
では、どうすれば虫取りが上手になれるのだろうか?
何か良いコツはないのだろうか?
そんなことをずっと考えていたら、先日会社のメンターの口癖が自分の網に引っかかった。
「くらったわ〜」
これこそが、捕まえた虫を捨てないための銀の弾丸だったのだ。
受容と内省の楔
僕は具体・感情よりも抽象・理性に偏ってしまうきらいがある。
特に大学時代は後者の方が善だとさえ思っていた。
今では理性も万能ではなく、感情も素直に受け入れながら、具体と抽象の両輪を回すことが重要だと認識できるようになった。(具体と抽象 | 細谷功)
しかし、根は頭でっかちな理想主義者のままであり、しばしばその理性が虫取りに支障をきたすことがある。
それは、虫網に入った虫を選び取るタイミング(2.受容
) である。
直感的に、何か新しいものに触れたかもしれない!と思ったとしても、その価値を言語で明確に表現できないと、受容する手前で捨ててしまうのだ。
あるいは、自分の感性にあっていないからと、取り込もうとすらしないことさえある。(お恥ずかしい...)
言い換えると、自分のその時点での言語化能力と狭量さに、どれだけ受容できるかが制約されていたことになる。
まさにこの制約を取り払うのが「くらったわ〜」なのである。
先輩は、何か印象的なものを見聞きするたびにこの言葉を使っていた(おそらく多くの人にとっては些細なことに対しても)。
1年間そのフレーズを聞き続けた僕としては、
「素直に、自分の感情が動いた、感化されたという感情を肯定できるワード」
なのではないかと解釈している。
なぜ感情が動いたのか、既存の価値観・知識との関係性を考察する前に、まずは 2.受容
を終わらせて利確するべきだ。
2.受容
と 3.内省
を明確に分離するための楔として機能するのが「くらったわ〜」である。
勢いよく受容するのは感性ベースで、その価値を見出すのは理性ベースで、横着せずに分離することで学びを最大化できるのだ。
批判的思考は大事だが、まずは受容しようとしてみることの重要性は計り知れない。[1]
[2]
自分の中に入れて初めて、自分の既存の価値観との対等な戦いの俎上にあげることが出来るのだから。
今回は良い虫取りが出来たのだろうか。
先輩の何気ない口癖から学びを得ることができ、実際に行動も変容させることが出来た。
今までで一番自覚的に学びの5つのステップを踏めたように思う。
このサイトは内省した結果をアウトプットし、行動(共有)する営みだが、そのタネは日常に遍在している。
刺激ジャンキーである以上に、素直なプロ驚きヤーでありたい。
[1]「無批判にあるがままを受け入れる」は、フッサールの考えに近いのではないかと思って調べたが、現象学の「エポケー」はより抽象的な世界の認識についての話だった
[2]理性ではなく直感で判断するという話は、ダニエル・カーネマンのシステム1に近い話になると思う
終わりに
これから歳を重ねるごとに、自分の頭でっかちな思考は重たくなっていくことは想像に難くない。
こんなブログを始めたからには、その傾向は加速するだろう。
必死に考えを固めてくほど、次の世代の価値観や常識、考えたこともない謎を受容する身軽さを失っていく。
自分が沢山考えた末に出した結論なのだ、というある種のプライドのようなものもできてしまうだろう。
「くらったわ〜」で、素直にタウマイゼンを受容することは、頑迷ジジイへの歩みを遅める良い薬になるはずだ。
80を超えてもなお、「分散型台帳ってなんや?」と質問してくれる祖父のように、死ぬまで未知に対して肯定的な人でありたい。
墓石の下ってどんな空間があるんだろうか?
豪華絢爛な小箱かもしれないし、ゆとりのある丁寧な空間かもしれないし、土しかないかもしれない。
どんな場合でも、「くらったわ〜」と言えるように精進していきたい。