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なぜこのサイトを始めたのか

13 min read
essayillustrationself-reflection

ネガティブスペース」という言葉がアートの世界にはある。
ルビンの壺は、錯視的な要素も含まれるが、その有名な例だろう。
壺というポジティブスペースを描くと、黒い部分(ネガティブスペース)が人の顔に見えるというものである。
僕はこれまで、ポジティブスペースばかり描いてきたという実感がある。

外向きの好奇心

バンガロール生まれ、広州育ち、初めての資格は象使い。
僕はリソースの許す限り、多様な(できるだけ周りの人と違う)刺激を求めて遊び回る。
拡散的好奇心が強めなので、新しいことにはどんどん首を突っ込むし、ゲームのトロフィーを集めるような感覚で、欲望の赴くままに経験・インプットを続けてきた。

  • 絶対に留学しなきゃと思い英語を極める
  • インドの結婚式でコブラダンスを踊ってみる
  • 独学でオンライン絵しりとりアプリを開発してみる
  • EU4というゲームきっかけで世界史にハマる

面白いと思ったら没頭するタイプで、それが成功体験に紐づいてしまったため、高速のI/O=善という強い図式が、大学生までには完成してしまっていた。
その図式自体は今でも正しいと思っているが、今回のテーマであるI/Oの中間をすっ飛ばしてきたのが僕の人生だったと認めたい。

そんな好奇心ジャンキーとしてこれまでの人生を歩んできた僕だが、ここ最近自分の在り方に対する違和感が日に日に強くなってきた。
自分の虚無に自覚的になってきたのだ。
主な理由は、パートナーと僕との対比を毎日見ていることだろう。
彼女や、僕が尊敬し憧れる人には、僕にはない静かな強かさがある。
これまでの人生、楽しみながらがむしゃらにやってきた僕には出せない豊かさ・深みである。
僕は、この虚無さに対して向き合うためにこのエッセイを書いている。

ポジティブスペースとネガティブスペース

さて、最初の話に戻るが、僕がこれまでの人生を通して情熱を注いで塗り続けてきたもの、それは「ポジティブスペース」だったのではないかと思う。
スキルや経験といった、外から見て分かりやすい、派手な実績を積み上げることに執着していたと言い換えても良いと思う。
そういった実績を積み上げるのは比較的得意だった僕にとって、インスタントに自分の価値を外部から保証してもらう手段として、最もコスパが良かったのだ。
その結果、オーストラリアに交換留学した時に、美術の授業の最終課題で私はこのような絵を提出した。
比較的サイズの大きい僕の等身大だから、3枚を横断する大作だ。

自分にゆかりのある都市や国、趣味など、自分が経験してきた、ありったけの世界を表現することで、ネガティブスペースに自分を浮かび上がらせている。
これらの過去の経験こそが、今の自分を形作っていると考えていたし、自分は内面に向き合う力が強くないということも薄々自覚していた。
逆さまに描いたのも、さまざまな経験を浴びながらも、ただ自由落下しているだけなのではないかという感覚を表現しようとしたのだ。
もちろん今でも、強い好奇心に突き動かされてできるだけ多くの経験を得ることは尊いと信じているが、それだけでは自分らしさというものは生まれてこない。

内省(Self Reflection)

自分らしさとは、外部から得た刺激に対して、内省をして初めて生まれてくるものだからだ。
僕の定義する内省とは、以下のステップを指す。

  1. 自分の過去の経験・感情・価値観をメタ的に分析する
  2. その結果をもとに、自分らしさを再構築する
  3. (optional)将来の幸福のために行動を変容する

僕が人生で一番最初に内省をしたのは、小学生1年生の時に「今日から僕じゃなくて、俺になる!」と宣言した時だろう。
周りのイケてる友達の一人称が「俺」なのに対して、自分はいつまでも「僕」と自称しているなぁと気づき、これから小学生に上がるなら「俺」の方が良いと判断し、実際に行動を変容させている。
いつの間にか内省の尊さを忘れ、惰性のインプットだけで生きていた今の僕から見ると眩しい限りだ。

この例はあまりにも劇的に行動が変容しているので、外部からも観測しやすいが、一般的に内省は非常に地味でなものだ。
資格取得やアプリのリリースといった、より直接的なI/Oの方がうんと華やかに映る。
その結果、振り返りに時間を割くよりも、次のI/Oに邁進するインセンティブが強く働いてしまう。
(これはビジネスでも同じで、PDCAのCは、Pと併せて特に抜け落ちやすい)

しかし、「ポジティブスペース」をいくら鮮やかに描いても、自分らしさは輪郭程度しか浮かび上がってこない。
自分が何に対して幸福を感じて、何が起きると不幸になって、どの方向を目指して歩いているのか。
こういった抽象的な自分の定義をして初めて、僕らしさが浮かび上がってくるのだ。
僕の尊敬している人は例外なく、こういった問いから逃げずに向き合ってきたのだと思う。
自分に向き合う時間は、外から見た時には比較的地味だし、何より痛みが伴うこともある。
特に自分自身の柔らかいところを直視するのはとても辛い。
しかし、その痛みが強いほど自分の芯は硬く強くなるし、僕からすると美しく尊い存在になるのだと思う。(植物の接触形態形成反応みたい!)

そうやって自分に向き合うことで、真っ暗なだけだった「ネガティブスペース」に少しずつ自分の色を滲ませることができるのだ。

大学生の時の僕は、まさにAIのように説明可能性の高いモデルを構築して、論理的に自分や他人の行動原理を説明(自分の中で)するのが好きだった。
これもある種の内省だったとは思うが、僕が「にちゃ会」と呼ぶような、過去の経験から一般化された美しいモデルを構築すること自体が目的となっていて、将来の幸福のために行動を変容する気がないという点で、痛みはないし、自分を強くはしてくれなかった。

その反省を踏まえて、このサイトで行う自己表現では、可能な限り自分の柔らかいところまでメスを差し込む所存だ。
客観的な分析に終始するような甘えたことはしないし、より主観的で個人的な体験・考えを表現しようと思う。
もちろんそんなに強い人間ではないので、踏み込みが甘い場面も多少あるかもしれないが、その時は叱ってやってほしい。

終わりに

さて、そうやって内省した結果をどうアウトプットするかだが、しばらくは今回のようなエッセイ形式になりそうだ。
僕は言語以外の自己表現をほとんどしてこなかったし、それ以上に鮮やかに自分を表す手段を現状持っていないからだ。
そのことに危機感を覚えて、ピアノや水彩画の練習もし始めたので、ゆくゆくは新しい形での作品もこのサイトに載せていきたいと考えている。

「ネガティブスペース」は、アートの世界においては重要な作品の構成要素だ。
しかし、僕は自分の存在自体が余白のまま終わるのは、自分の人生を生きていないような感覚がする。
より自分に向き合う時間を増やして、老人ホームに入るまでには、カラフルに塗りつぶされた自分でありたいと思う。
そうなれた暁には、あのオーストラリアで書いた未完の大作の続きを描けるだろうから。